Who’s The Beatdown II: Multitasking
Zvi Mowshowitz
マイク=フローレスの“Who’s The Beatdown?”(どちらがビートダウン?)はマジックの古典の一つだ。まだ読んだことがないなら、強くお勧めしたい。古いカードが使われているが、カードやフォーマットを知らなくても簡単についていける。自分では彼の言わんとするところのほとんどを理解しているとは思うが、ボキャブラリーが足りないため、上手く語ることができないこともなんとなく感じる。フローレスが主張したことについて、より優れた考え方を、実例を扱うことで示していきたい。
長年にわたって、そこから学んできたことを試してきたが、私の考え方はフローレスと違う。感じ入ってはいるのだが、一言半句に至るまでというわけではない。私にとって最重要の命題は、特に純粋なダメージ量という意味で、どちらがビートダウンかではない。アタックしてダメージを与えるということは、アドバンテージを得る手段の一つに過ぎず、やり方なら他にいくらでもある。適切な使い方ができるなら、ダメージも含め、それらは全て、どちらがビートダウンで、どちらがコントロールかを見極めることができる。「どちらがビートダウンか」はたしかに重要だが、それを論じる前に、もっと根幹に問題がある。どちらが確実に勝てそうだろうか?
定義:より勝てる確実性のあるプレイヤーとは、現在の状態から長期戦において勝つ見込みのあるプレイヤーを意味する。マッチアップにおいて使うなら、1ターン目の時点でもう確実性がある、という場合のみ。
たしかに色々な意味で、この定義は曖昧だ。だが、多岐にわたるシチュエーションを扱うのにもってこいの幅広さがあると思っている。
マジックのゲームとマッチアップの大部分を占めている性質として、デッキが勝利への確実性を持つことを宿命づけられていることがあり、それゆえその確実性を保つため、アドバンテージを取れるよう作られている。確実性を保つということは、時に単に生き延びるということも含まれるが、また時にあまりカードを安売りしない、という逆もある。伝統的なコントロールはみなこちらに当てはまる。サイカトグは現在の(訳注:これが書かれた当時の)デッキの中でベストな例だろう。サイカトグの戦略は、確実性を得るやいなや、防御に自らのリソースを最大限に割くことで、その確実性をバックアップする。サイカトグがアドバンテージを得る方法は、デッキ構築を見てもらえれば一番よく分かると思う。まず、サイカトグと激動のコンビネーション。相手が青ければ複雑な話になるが、そうでなければゲームが長引くだけで勝てる。さらに、サイカトグのデッキのカード全てが、相手のカードを相殺する以上の、プラスアルファの効果がある。相手がこのエンジンに付いてこられないなら、サイカトグは1対1交換を続ければいずれ勝てる。
伝統的な「どちらがビートダウン?」という言葉に対し、確実性はコントロールの側からみた言葉に思えるかもしれない。二つは密に繋がっている。もし他のプレイヤーに確実性があるなら、君は現在の場をひっくり返さない限り、明らかにコントロールの側になれない。逆もまた同様だ。これが意味するところは、確実性という考え方(長期戦で有利なほうが勝つ)が有効なら、こちらが勝つためには、対戦相手がビートダウンの役割をしなくてはならないということになる。だが、ビートダウンの役割が何なのかはっきりしない場合、複雑な事態になる。また、確実性はオール・オア・ナッシングというものではなく、程度の問題として考えられるものであることを心に留めてほしい。終盤ではアドバンテージを得られるとあるデッキが、まさかのための保険がちょっと足りないばかりに窒息してしまう、ということもよくある。コントロールをめぐる戦いとは、確実性を競う戦いともいえる。たとえ片方の側がビートダウンであってもだ。それがどの程度役に立つか理解してもらうために、わかりやすい例を挙げよう。ミラーマッチで、片方のプレイヤーが処分もできない死にカードを抱えている場合を考えてみる。もし相手の手札にある不要なカードが魔力の乱れ2枚なら、何か1枚有効なカードを引けば消えてしまう程度のアドバンテージでしかない。だがクリーチャー除去を8枚も腐らせているとしたら、深刻な被害に見舞われることだろう。
次にビートダウンの側に視点を変えよう。私の言うビートダウンの役割とは、従来のモデルよりもフレキシブルだ。従来のモデルでは、ビートダウンの役割とはビートダウンすること、というものであったが、私はビートダウンすることと、ビートダウンの側になることとは大きな差があると考えている。たとえほとんどすべてのマッチアップで二つが同じだったとしても、コントロールの機能を持たないから自動的にビートダウン、ということにはならない。もし同時にビートダウン・コントロール両方をこなせるなら非常に大きなアドバンテージになる。そのプレイヤーはほとんど勝ちだろう。従来のモデルでは、片方のプレイヤーがどちらかを取り、もう一方のプレイヤーが残った方を割り当てられる。たしかに大部分のマッチが当てはまるものの、明確に決まるのは稀だ。たとえばスタンダードのサイカトグ対赤緑デッキを見てみよう。赤緑は甘んじてビートダウンになるだろうし、サイカトグはコントロールに落ち着く。当たり前に思えるかもしれないが、厳密にその通りなのだろうか?
もうほとんどその通りだったとしても、流動的になることもある。先程のマッチアップを、カードアドバンテージの点から見てみよう。サイカトグのデッキは激動をプレイして確実性を「確定」させるが、それには土地を8枚並べなくてはならない。このマッチアップの奇妙な点は、場を押さえるため、サイカトグによって捨てたカードが後からもう一度役に立つことだ。赤緑のデッキに入っているクリーチャーで、サイカトグが対処しがたいのは幻影のケンタウルスと渋面の溶岩使いのみ。たまにケンタウルスがゲームを制してしまうこともあるが、今考えるのは、そういう状態にならず、サイカトグが殴りにいっている状況だ。
結局のところ、渋面の溶岩使いとサイカトグとは同じ機能を果たす。つまりは、ゲームの焦点が移り変わる着目点となるということだ。両者が消耗戦の段階に突入している。サイカトグのプレイヤーは、除去でバックアップできるため、カードの続く限り場をコントロールできる。手札を捨てることすら攻撃手段になり、カードドローからカードアドバンテージへと焦点は移り変わる。赤緑は、サイカトグがカードを補給する前に攻撃手段を尽きさせようとするだろう。一方サイカトグの側も相手を弾切れに追い込もうとする。
両方のプレイヤーがコンスタントにスペルをプレイしていけば、より多くのダメージを叩き出したほうが勝者になるが、それはどちらなのか?赤緑は、サイカトグのやり方とは違って、消耗戦(訳注:自分もカードを使うが、それ以上に相手に使わせること)によってカードアドバンテージを得ようとする。相手に20ダメージ与えるのではなく、相手のカードを尽きさせれば勝ちだ。赤緑のライフは手札の数で間接的に示されているため、サイカトグのプレイヤーは(自らのデッキにある)ビートダウンの機能を捨てることでコントロールを掌握しようとする。見方を変えれば、これらはアドバンテージ獲得競争で、両者の側がビートダウンの役をしようとする、と言うことができるだろう。従来のWho’s The Beatdownの考え方では、赤緑はアタックを強いられるためビートダウン、サイカトグはライフを保って相手を阻もうとするためコントロールの側にまわる。だが、カードを落とそうとすることと引こうとすること、どのような違いがあるだろうか?いずれにせよ力押しすれば、結果は似てくるのではないだろうか。
放っておけばサイカトグがいずれ勝つが、そうなるはずもない。常に嫌がらせを受けつつ、生き伸びるために耐えていく。対戦相手のデッキが長期的に十分なプレッシャーを与え続けることができるなら、相手の方に確実性がある。それならサイカトグの側がビートダウンしなくてはならない。アグレッシブにいかねばならないし、カードドローでタップアウトし、ビートダウンをするために十分なカードを引かなければならない。もし能動的なカードアドバンテージを十分に得られないなら、ゲームに勝てないも同じだ。特にサイカトグは、とあるシチュエーションにおいて役割が交代することを頭に入れておかねばならないデッキだ。というのも、サイカトグそれ自身が、ビートダウンから身を守り、時にビートダウンすらできるほどの力があるものの、確実性を得るためのコストもまた膨大であるため、コントロールの役割をするとき危険にさらされる可能性がある。大部分はコントロールの役割として揺るぎないが、そうそう簡単な図式にもならない。
マッチアップからマッチアップ、ゲームからゲーム、ときにターンからターンにおいてさえ、マジックで重要なことは刻々と変化し続ける。オリジナルのWho’s The Beatdownのコンセプトは、君がビートダウンなのかコントロールなのかを知ることにあった。これは考察の出発点としてはよいものだが、より大事な原則がある。君はどちらの役割なのかわかっている必要はない。両方のプレイヤーがどのようにして勝つかということこそ理解する必要がある。フローレスが引用していたことだが、フィンケルの金言だ。問題となる物事だけに集中せよ。ビートダウンとコントロールの役割は、その考えの行き着く先として、いかなるゲームやシチュエーションにおいても単純かつ最も可能性の高いものだ。決して強制的に押し付けられるものではないし、ずっと固まって動かないわけでもない。
役割が逆になる場合の良い例として、サイカトグのマッチアップをもう一つ。ジャッジメントから不可思議が入ったころの青緑との対決で、特にマーフォークの物あさりが場に出たときを見てみよう。物あさりが起動して、かつ嘘か真かが連鎖しないとき、直ちに役割が逆転する。青緑は1ターンに2枚のカードを引くため、相当の確実性を手にする。特にサイカトグの側が物あさりを除去できないならなおさらだ。青緑は序盤から強力なビートダウンを開始し、多くのゲームでサイカトグを速やかに撃破する。
物あさりを場に残しておくことで、青緑は素晴らしい特典を得る。両方の役割ができるのだ。そんなときに正面からぶつかるのは自殺行為に他ならない。実際、青緑は長期戦を制するつもりで、相手を防戦一方に追い込もうとしている。この状況では、対戦相手は物あさりを除去するためのスペルをプレイして、カードアドバンテージという形のビートダウンを挑もうとする。さもなくば明日はなく、またそうすることで少なくとも場を引っくり返し、現状を打破することができる。
ここで述べられたカードドローとカードアドバンテージは、この例でのビートダウンとコントロールの役割を分ける要素に過ぎないことに注意。どのタイプのアドバンテージが役割を分けるかは状況によって違う。アタックして2点、は普通ビートダウンだが、ネクロポーテンスのようなカードを相手にしたときはコントロールになるという、変わった例もある。これもまた無関係、もしくは事実上無関係に思えるかもしれない。カードをドローするのは普通コントロールだろうが、コントロールをめぐる戦いで余分にカードを引くのは、ビートダウンの究極の形だ!
・・・マジックはよくコントロールとビートダウン、同時に両方をめぐる争いになる・・・。神の怒りが入った白青コントロールが、極端に立場の変わる場合を見てみよう。イアソン=ジラが初めてのマスターズ(訳注:2000年)でカウンタースリヴァーに当たった。どんなときに起こるか?それは場にスリヴァーが何体いるかによる。1体も出ていないなら、コントロールデッキは安泰だ。コントロールデッキは何も起こらないことを望む一方、カウンタースリヴァーは何かをやらかすように作られている。少なくともコントロールのプレイヤーはそれを頭に入れておかねばならない。これはイアソンがそのようにデッキを作り、このマッチアップでもそう考えていた、そんなシチュエーションだ。
コントロールの側が何も確実性に繋がる要素を出していないなら、コントロールのプレイヤーにチャンスはなく、ゲームはカウンタースリヴァーのプレイヤーが勝つ。変異種のようなクリーチャーを場に放り込んでそのまま無事を祈らない限り、どうやっても素早くは勝てない。何もさせないことが勝利への道でなくてはならない。デッキが受け身なので、ゲームのすべての序盤、あらゆる段階において防御に回り、相手を倒す準備が整うまで、相手を効率的に動けないようにする。ゲームのある時点において、マナや他の要素により、カウンタースリヴァーのプレイヤーは均衡した状態からごく自然に勝ちを得て、コントロールデッキは歯が立たなくなる。ではそのような時がこなかったらどうだろう。空となった場に大量の土地が並べば、その時点で致命傷を受けていない限りはコントロールの勝ちだ。
参考までに、実際にこのケースに当てはまるマッチアップを挙げる。ニースであったマスターズの決勝で、ミラクルグロウをプレイするアレキサンダー=ウィットは、ジャスティン=ゲイリーのオースと対戦した。通常、ジャスティンがコントロールに回るが、ジャスティンには冬の宝珠を除去するカードがサイドボードになかった。グロウはカウンタースリヴァーに似たアグロコントロールであるとはいえ、長期的にはアレキサンダーが勝つ。結果として、ジャスティンは獣群れの呼び声をサイドインし、不十分を承知でビートダウンするしか選択はなかった。チャンスはわずかでマッチには負けてしまったが、わずかとはいえゼロよりは大きい。また、ジラは最後のマッチでトレードウインド=サバイバルに当たったが、マナ漏出が死にカードになる前に場を均衡させることができず、そのため基本に帰れを止めるのに十分なカードがなかった。
さて、ここまできて読者諸兄はなぜこれだけカウンタースリヴァーのマッチが多いのか不思議に思うことだろう。単純だから、だろうか?クリーチャーが2体出ると理解できると思う。筋力スリヴァーと水晶スリヴァーが場に出て、毎ターン5ダメージを叩き出す。それぞれのプレイヤーはどうするだろうか?そう、カウンタースリヴァーのプレイヤーがアタックし、相手のプレイヤーはアタックさせないようにする。だがそれに続く逆の現象がより意味を持つ。カウンタースリヴァーのプレイヤーは現状を維持しようとする。つまり、コントロールのプレイヤーに神の怒りや変異種を解決させないようにしたり、させたとしてもアドバンテージをすぐに再構築できるように準備している。今やカウンタースリヴァーのプレイヤーはコントロールを掌握しており、手放さないようにしている。そのためにカウンターを使って場を守る。
今やカウンタースリヴァーはコントロール側に立つため、本来コントロールデッキだった方は能動的にいかなくてはならない。相手の出方を見るためのちょっとした呪文(*)や脅威を使ってビートダウンを試み、何でも良いので場をひっくり返そうとしなくてはいけない。コントロールデッキとコントロールの役割を混同するべきではなく、誤解を招きそうなら専門用語にすべきかもしれないとは思うが、これ以上ややこしくするつもりもない。理解するための大ヒントが、カウンタースリヴァーのような戦略を採る「アグロコントロール」という言葉にある。この言葉は、時と場合によってはコントロールデッキのように、コントロールデッキとして動ける能力があることを暗に示している。
この現象は、「場で勝っている」という言い方で表されるように、視点を変えた見方ができる。行き詰まりが場にあり、壊した方(先に呪文をプレイして相手にカードを引かせた方)が負けになる状況を考えてみる。これが考えられるシチュエーションを想定してみよう。現在場で押されているプレイヤーは、自発的に状況を変えられない。まずありえるのが、相手は手札がなくてこちらは十分にある場合。もう一つはこちらがカウンターで、相手にとって重要なスペルを通すのが難しい場合。どちらの想定も有効なこともあれば、無意味なこともある。もし両方がヨーグモスの取り引きデッキなら、どちらが長期戦で勝つのかなんて考えるまでもない。そもそも長期戦などあるのか?同様に、両者ともにコントロールデッキではないマッチアップなら、場で勝つということなど、何かしら問題が出たら−普通はどちらかの手札が空になったとき−考えればよいことだろう。
マジックでは、大事なものは絶えず移り変わる。移り変わるために、プレイヤーはなすべき役割を変えていかねばならない。思考のレベルでは、マジックは役割を得るための探索行であり、それらの役割はどの段階においても非常にフレキシブルだ。マッチアップだけではなく、デッキ、ゲーム、ターンですら変わりうる。すべて、少なくともほとんどのマッチアップの場面において、そのような交代が頻繁にある。フローレスが言ったことだが、最高のサイドボードとなるカードのほとんどは、単に相手に有効なだけではなく、君の戦略の全体を変化・逆転させるために作られている。君が意図的に役割を変えることもよくあるだろう。もっと大事なのは、それぞれのプレイヤーは勝つためにどうすればよいかということを理解しておかなければならない。このマッチアップでは片方のプレイヤーがビートダウン、もう一方がコントロールと見当をつけるのは、やる価値があるし、新しい洞察を得られることもある。だがそれだけでは、問題の表面をなぞっただけに過ぎない。
おそらく、マジックにおいて最も価値のある技術とは、フィンケルが重視していた、何が問題なのか見極めることのできる能力だろう。10年たった今も、いまだ私がマジックに魅せられる理由の大部分が、以前と同じゲームに遭遇しても(私はヨーグモスの取り引きデッキと長期戦がないことは体験したので、ありえないとか言わないように。)、状況と問題となることの再分析を迫られることにある。戦闘のブロックなどでもそうだが、一つのゲームでもたくさんの展開がある。クリーチャーの展開、そしてカードアドバンテージ合戦、カウンターの使い方について、ウルザの激怒を打たれないためにマナを縛っておくことについて、残された互いのライブラリーの中身について。そうした状況での決断のため、どうプレイしたらよいか前もって分かっておくことが必要なのだから。
- Zvi Mowshowitz
原文
http://magic.tcgplayer.com/db/article.asp?id=2754
参考
http://www.wizards.com/default.asp?x=mtgcom/daily/zm42
(翻訳)http://diarynote.jp/d/72743/20060701.html
ズヴィの最後の記事です。今回の文章にあった「何をめぐるゲームか」という考え方が、さらに掘り下げて書いてありますので、こちらも併せてご覧ください。
http://www.starcitygames.com/php/news/expandnews.php?Article=3692
(翻訳)http://diarynote.jp/d/72743/20061221.html
元祖“Who’s The Beatdown?”はこちら。
(*)カウンターをめぐるプレイングについてはこちらを。
http://www.wizards.com/default.asp?x=mtgcom/daily/zm27
(翻訳)http://diarynote.jp/d/72743/20060119.html
および http://diarynote.jp/d/72743/20060123.html
Zvi Mowshowitz
マイク=フローレスの“Who’s The Beatdown?”(どちらがビートダウン?)はマジックの古典の一つだ。まだ読んだことがないなら、強くお勧めしたい。古いカードが使われているが、カードやフォーマットを知らなくても簡単についていける。自分では彼の言わんとするところのほとんどを理解しているとは思うが、ボキャブラリーが足りないため、上手く語ることができないこともなんとなく感じる。フローレスが主張したことについて、より優れた考え方を、実例を扱うことで示していきたい。
長年にわたって、そこから学んできたことを試してきたが、私の考え方はフローレスと違う。感じ入ってはいるのだが、一言半句に至るまでというわけではない。私にとって最重要の命題は、特に純粋なダメージ量という意味で、どちらがビートダウンかではない。アタックしてダメージを与えるということは、アドバンテージを得る手段の一つに過ぎず、やり方なら他にいくらでもある。適切な使い方ができるなら、ダメージも含め、それらは全て、どちらがビートダウンで、どちらがコントロールかを見極めることができる。「どちらがビートダウンか」はたしかに重要だが、それを論じる前に、もっと根幹に問題がある。どちらが確実に勝てそうだろうか?
定義:より勝てる確実性のあるプレイヤーとは、現在の状態から長期戦において勝つ見込みのあるプレイヤーを意味する。マッチアップにおいて使うなら、1ターン目の時点でもう確実性がある、という場合のみ。
たしかに色々な意味で、この定義は曖昧だ。だが、多岐にわたるシチュエーションを扱うのにもってこいの幅広さがあると思っている。
マジックのゲームとマッチアップの大部分を占めている性質として、デッキが勝利への確実性を持つことを宿命づけられていることがあり、それゆえその確実性を保つため、アドバンテージを取れるよう作られている。確実性を保つということは、時に単に生き延びるということも含まれるが、また時にあまりカードを安売りしない、という逆もある。伝統的なコントロールはみなこちらに当てはまる。サイカトグは現在の(訳注:これが書かれた当時の)デッキの中でベストな例だろう。サイカトグの戦略は、確実性を得るやいなや、防御に自らのリソースを最大限に割くことで、その確実性をバックアップする。サイカトグがアドバンテージを得る方法は、デッキ構築を見てもらえれば一番よく分かると思う。まず、サイカトグと激動のコンビネーション。相手が青ければ複雑な話になるが、そうでなければゲームが長引くだけで勝てる。さらに、サイカトグのデッキのカード全てが、相手のカードを相殺する以上の、プラスアルファの効果がある。相手がこのエンジンに付いてこられないなら、サイカトグは1対1交換を続ければいずれ勝てる。
伝統的な「どちらがビートダウン?」という言葉に対し、確実性はコントロールの側からみた言葉に思えるかもしれない。二つは密に繋がっている。もし他のプレイヤーに確実性があるなら、君は現在の場をひっくり返さない限り、明らかにコントロールの側になれない。逆もまた同様だ。これが意味するところは、確実性という考え方(長期戦で有利なほうが勝つ)が有効なら、こちらが勝つためには、対戦相手がビートダウンの役割をしなくてはならないということになる。だが、ビートダウンの役割が何なのかはっきりしない場合、複雑な事態になる。また、確実性はオール・オア・ナッシングというものではなく、程度の問題として考えられるものであることを心に留めてほしい。終盤ではアドバンテージを得られるとあるデッキが、まさかのための保険がちょっと足りないばかりに窒息してしまう、ということもよくある。コントロールをめぐる戦いとは、確実性を競う戦いともいえる。たとえ片方の側がビートダウンであってもだ。それがどの程度役に立つか理解してもらうために、わかりやすい例を挙げよう。ミラーマッチで、片方のプレイヤーが処分もできない死にカードを抱えている場合を考えてみる。もし相手の手札にある不要なカードが魔力の乱れ2枚なら、何か1枚有効なカードを引けば消えてしまう程度のアドバンテージでしかない。だがクリーチャー除去を8枚も腐らせているとしたら、深刻な被害に見舞われることだろう。
次にビートダウンの側に視点を変えよう。私の言うビートダウンの役割とは、従来のモデルよりもフレキシブルだ。従来のモデルでは、ビートダウンの役割とはビートダウンすること、というものであったが、私はビートダウンすることと、ビートダウンの側になることとは大きな差があると考えている。たとえほとんどすべてのマッチアップで二つが同じだったとしても、コントロールの機能を持たないから自動的にビートダウン、ということにはならない。もし同時にビートダウン・コントロール両方をこなせるなら非常に大きなアドバンテージになる。そのプレイヤーはほとんど勝ちだろう。従来のモデルでは、片方のプレイヤーがどちらかを取り、もう一方のプレイヤーが残った方を割り当てられる。たしかに大部分のマッチが当てはまるものの、明確に決まるのは稀だ。たとえばスタンダードのサイカトグ対赤緑デッキを見てみよう。赤緑は甘んじてビートダウンになるだろうし、サイカトグはコントロールに落ち着く。当たり前に思えるかもしれないが、厳密にその通りなのだろうか?
もうほとんどその通りだったとしても、流動的になることもある。先程のマッチアップを、カードアドバンテージの点から見てみよう。サイカトグのデッキは激動をプレイして確実性を「確定」させるが、それには土地を8枚並べなくてはならない。このマッチアップの奇妙な点は、場を押さえるため、サイカトグによって捨てたカードが後からもう一度役に立つことだ。赤緑のデッキに入っているクリーチャーで、サイカトグが対処しがたいのは幻影のケンタウルスと渋面の溶岩使いのみ。たまにケンタウルスがゲームを制してしまうこともあるが、今考えるのは、そういう状態にならず、サイカトグが殴りにいっている状況だ。
結局のところ、渋面の溶岩使いとサイカトグとは同じ機能を果たす。つまりは、ゲームの焦点が移り変わる着目点となるということだ。両者が消耗戦の段階に突入している。サイカトグのプレイヤーは、除去でバックアップできるため、カードの続く限り場をコントロールできる。手札を捨てることすら攻撃手段になり、カードドローからカードアドバンテージへと焦点は移り変わる。赤緑は、サイカトグがカードを補給する前に攻撃手段を尽きさせようとするだろう。一方サイカトグの側も相手を弾切れに追い込もうとする。
両方のプレイヤーがコンスタントにスペルをプレイしていけば、より多くのダメージを叩き出したほうが勝者になるが、それはどちらなのか?赤緑は、サイカトグのやり方とは違って、消耗戦(訳注:自分もカードを使うが、それ以上に相手に使わせること)によってカードアドバンテージを得ようとする。相手に20ダメージ与えるのではなく、相手のカードを尽きさせれば勝ちだ。赤緑のライフは手札の数で間接的に示されているため、サイカトグのプレイヤーは(自らのデッキにある)ビートダウンの機能を捨てることでコントロールを掌握しようとする。見方を変えれば、これらはアドバンテージ獲得競争で、両者の側がビートダウンの役をしようとする、と言うことができるだろう。従来のWho’s The Beatdownの考え方では、赤緑はアタックを強いられるためビートダウン、サイカトグはライフを保って相手を阻もうとするためコントロールの側にまわる。だが、カードを落とそうとすることと引こうとすること、どのような違いがあるだろうか?いずれにせよ力押しすれば、結果は似てくるのではないだろうか。
放っておけばサイカトグがいずれ勝つが、そうなるはずもない。常に嫌がらせを受けつつ、生き伸びるために耐えていく。対戦相手のデッキが長期的に十分なプレッシャーを与え続けることができるなら、相手の方に確実性がある。それならサイカトグの側がビートダウンしなくてはならない。アグレッシブにいかねばならないし、カードドローでタップアウトし、ビートダウンをするために十分なカードを引かなければならない。もし能動的なカードアドバンテージを十分に得られないなら、ゲームに勝てないも同じだ。特にサイカトグは、とあるシチュエーションにおいて役割が交代することを頭に入れておかねばならないデッキだ。というのも、サイカトグそれ自身が、ビートダウンから身を守り、時にビートダウンすらできるほどの力があるものの、確実性を得るためのコストもまた膨大であるため、コントロールの役割をするとき危険にさらされる可能性がある。大部分はコントロールの役割として揺るぎないが、そうそう簡単な図式にもならない。
マッチアップからマッチアップ、ゲームからゲーム、ときにターンからターンにおいてさえ、マジックで重要なことは刻々と変化し続ける。オリジナルのWho’s The Beatdownのコンセプトは、君がビートダウンなのかコントロールなのかを知ることにあった。これは考察の出発点としてはよいものだが、より大事な原則がある。君はどちらの役割なのかわかっている必要はない。両方のプレイヤーがどのようにして勝つかということこそ理解する必要がある。フローレスが引用していたことだが、フィンケルの金言だ。問題となる物事だけに集中せよ。ビートダウンとコントロールの役割は、その考えの行き着く先として、いかなるゲームやシチュエーションにおいても単純かつ最も可能性の高いものだ。決して強制的に押し付けられるものではないし、ずっと固まって動かないわけでもない。
役割が逆になる場合の良い例として、サイカトグのマッチアップをもう一つ。ジャッジメントから不可思議が入ったころの青緑との対決で、特にマーフォークの物あさりが場に出たときを見てみよう。物あさりが起動して、かつ嘘か真かが連鎖しないとき、直ちに役割が逆転する。青緑は1ターンに2枚のカードを引くため、相当の確実性を手にする。特にサイカトグの側が物あさりを除去できないならなおさらだ。青緑は序盤から強力なビートダウンを開始し、多くのゲームでサイカトグを速やかに撃破する。
物あさりを場に残しておくことで、青緑は素晴らしい特典を得る。両方の役割ができるのだ。そんなときに正面からぶつかるのは自殺行為に他ならない。実際、青緑は長期戦を制するつもりで、相手を防戦一方に追い込もうとしている。この状況では、対戦相手は物あさりを除去するためのスペルをプレイして、カードアドバンテージという形のビートダウンを挑もうとする。さもなくば明日はなく、またそうすることで少なくとも場を引っくり返し、現状を打破することができる。
ここで述べられたカードドローとカードアドバンテージは、この例でのビートダウンとコントロールの役割を分ける要素に過ぎないことに注意。どのタイプのアドバンテージが役割を分けるかは状況によって違う。アタックして2点、は普通ビートダウンだが、ネクロポーテンスのようなカードを相手にしたときはコントロールになるという、変わった例もある。これもまた無関係、もしくは事実上無関係に思えるかもしれない。カードをドローするのは普通コントロールだろうが、コントロールをめぐる戦いで余分にカードを引くのは、ビートダウンの究極の形だ!
・・・マジックはよくコントロールとビートダウン、同時に両方をめぐる争いになる・・・。神の怒りが入った白青コントロールが、極端に立場の変わる場合を見てみよう。イアソン=ジラが初めてのマスターズ(訳注:2000年)でカウンタースリヴァーに当たった。どんなときに起こるか?それは場にスリヴァーが何体いるかによる。1体も出ていないなら、コントロールデッキは安泰だ。コントロールデッキは何も起こらないことを望む一方、カウンタースリヴァーは何かをやらかすように作られている。少なくともコントロールのプレイヤーはそれを頭に入れておかねばならない。これはイアソンがそのようにデッキを作り、このマッチアップでもそう考えていた、そんなシチュエーションだ。
コントロールの側が何も確実性に繋がる要素を出していないなら、コントロールのプレイヤーにチャンスはなく、ゲームはカウンタースリヴァーのプレイヤーが勝つ。変異種のようなクリーチャーを場に放り込んでそのまま無事を祈らない限り、どうやっても素早くは勝てない。何もさせないことが勝利への道でなくてはならない。デッキが受け身なので、ゲームのすべての序盤、あらゆる段階において防御に回り、相手を倒す準備が整うまで、相手を効率的に動けないようにする。ゲームのある時点において、マナや他の要素により、カウンタースリヴァーのプレイヤーは均衡した状態からごく自然に勝ちを得て、コントロールデッキは歯が立たなくなる。ではそのような時がこなかったらどうだろう。空となった場に大量の土地が並べば、その時点で致命傷を受けていない限りはコントロールの勝ちだ。
参考までに、実際にこのケースに当てはまるマッチアップを挙げる。ニースであったマスターズの決勝で、ミラクルグロウをプレイするアレキサンダー=ウィットは、ジャスティン=ゲイリーのオースと対戦した。通常、ジャスティンがコントロールに回るが、ジャスティンには冬の宝珠を除去するカードがサイドボードになかった。グロウはカウンタースリヴァーに似たアグロコントロールであるとはいえ、長期的にはアレキサンダーが勝つ。結果として、ジャスティンは獣群れの呼び声をサイドインし、不十分を承知でビートダウンするしか選択はなかった。チャンスはわずかでマッチには負けてしまったが、わずかとはいえゼロよりは大きい。また、ジラは最後のマッチでトレードウインド=サバイバルに当たったが、マナ漏出が死にカードになる前に場を均衡させることができず、そのため基本に帰れを止めるのに十分なカードがなかった。
さて、ここまできて読者諸兄はなぜこれだけカウンタースリヴァーのマッチが多いのか不思議に思うことだろう。単純だから、だろうか?クリーチャーが2体出ると理解できると思う。筋力スリヴァーと水晶スリヴァーが場に出て、毎ターン5ダメージを叩き出す。それぞれのプレイヤーはどうするだろうか?そう、カウンタースリヴァーのプレイヤーがアタックし、相手のプレイヤーはアタックさせないようにする。だがそれに続く逆の現象がより意味を持つ。カウンタースリヴァーのプレイヤーは現状を維持しようとする。つまり、コントロールのプレイヤーに神の怒りや変異種を解決させないようにしたり、させたとしてもアドバンテージをすぐに再構築できるように準備している。今やカウンタースリヴァーのプレイヤーはコントロールを掌握しており、手放さないようにしている。そのためにカウンターを使って場を守る。
今やカウンタースリヴァーはコントロール側に立つため、本来コントロールデッキだった方は能動的にいかなくてはならない。相手の出方を見るためのちょっとした呪文(*)や脅威を使ってビートダウンを試み、何でも良いので場をひっくり返そうとしなくてはいけない。コントロールデッキとコントロールの役割を混同するべきではなく、誤解を招きそうなら専門用語にすべきかもしれないとは思うが、これ以上ややこしくするつもりもない。理解するための大ヒントが、カウンタースリヴァーのような戦略を採る「アグロコントロール」という言葉にある。この言葉は、時と場合によってはコントロールデッキのように、コントロールデッキとして動ける能力があることを暗に示している。
この現象は、「場で勝っている」という言い方で表されるように、視点を変えた見方ができる。行き詰まりが場にあり、壊した方(先に呪文をプレイして相手にカードを引かせた方)が負けになる状況を考えてみる。これが考えられるシチュエーションを想定してみよう。現在場で押されているプレイヤーは、自発的に状況を変えられない。まずありえるのが、相手は手札がなくてこちらは十分にある場合。もう一つはこちらがカウンターで、相手にとって重要なスペルを通すのが難しい場合。どちらの想定も有効なこともあれば、無意味なこともある。もし両方がヨーグモスの取り引きデッキなら、どちらが長期戦で勝つのかなんて考えるまでもない。そもそも長期戦などあるのか?同様に、両者ともにコントロールデッキではないマッチアップなら、場で勝つということなど、何かしら問題が出たら−普通はどちらかの手札が空になったとき−考えればよいことだろう。
マジックでは、大事なものは絶えず移り変わる。移り変わるために、プレイヤーはなすべき役割を変えていかねばならない。思考のレベルでは、マジックは役割を得るための探索行であり、それらの役割はどの段階においても非常にフレキシブルだ。マッチアップだけではなく、デッキ、ゲーム、ターンですら変わりうる。すべて、少なくともほとんどのマッチアップの場面において、そのような交代が頻繁にある。フローレスが言ったことだが、最高のサイドボードとなるカードのほとんどは、単に相手に有効なだけではなく、君の戦略の全体を変化・逆転させるために作られている。君が意図的に役割を変えることもよくあるだろう。もっと大事なのは、それぞれのプレイヤーは勝つためにどうすればよいかということを理解しておかなければならない。このマッチアップでは片方のプレイヤーがビートダウン、もう一方がコントロールと見当をつけるのは、やる価値があるし、新しい洞察を得られることもある。だがそれだけでは、問題の表面をなぞっただけに過ぎない。
おそらく、マジックにおいて最も価値のある技術とは、フィンケルが重視していた、何が問題なのか見極めることのできる能力だろう。10年たった今も、いまだ私がマジックに魅せられる理由の大部分が、以前と同じゲームに遭遇しても(私はヨーグモスの取り引きデッキと長期戦がないことは体験したので、ありえないとか言わないように。)、状況と問題となることの再分析を迫られることにある。戦闘のブロックなどでもそうだが、一つのゲームでもたくさんの展開がある。クリーチャーの展開、そしてカードアドバンテージ合戦、カウンターの使い方について、ウルザの激怒を打たれないためにマナを縛っておくことについて、残された互いのライブラリーの中身について。そうした状況での決断のため、どうプレイしたらよいか前もって分かっておくことが必要なのだから。
- Zvi Mowshowitz
原文
http://magic.tcgplayer.com/db/article.asp?id=2754
参考
http://www.wizards.com/default.asp?x=mtgcom/daily/zm42
(翻訳)http://diarynote.jp/d/72743/20060701.html
ズヴィの最後の記事です。今回の文章にあった「何をめぐるゲームか」という考え方が、さらに掘り下げて書いてありますので、こちらも併せてご覧ください。
http://www.starcitygames.com/php/news/expandnews.php?Article=3692
(翻訳)http://diarynote.jp/d/72743/20061221.html
元祖“Who’s The Beatdown?”はこちら。
(*)カウンターをめぐるプレイングについてはこちらを。
http://www.wizards.com/default.asp?x=mtgcom/daily/zm27
(翻訳)http://diarynote.jp/d/72743/20060119.html
および http://diarynote.jp/d/72743/20060123.html
コメント
完成期待してます!
本当は終わるまで載せるつもりはなかったのですが、
友人の圧力(?)によりできた部分から、ということになりました。
あまりお待たせしないように頑張ります。